「”生命”の本質は情報工学に一番近い」(強調引用者)

タイトルの強調は…人間をただの生命(DNAによる自己複製)とみなすかどうか、である。たとえば閉経した女性はすでに人間でないかどうか。これは今流行りのホモネタに通じるといである。よく聞く安易な意見「生物として終わってる」という。それがどうした、というのか。
生命の本質は情報工学に一番近い…これはどういうことかというと、飯をエネルギー源(電気)に変換しないと一切の記憶も感情も損なわれてしまう。ここまで良い?
やや、アホペディアから引用させてもらおう。
統合失調症の陽性症状(幻覚・妄想など)は基底核や中脳辺縁系ニューロンのドーパミン過剰によって生じるという仮説がある。この仮説に基づき薬物療法で一定の成果を収めてきているが、一方で陰性症状には効果が無く、根本的病因としては仮説の域を出ていない。覚醒剤はドーパミン作動性に作用するため、中毒症状は統合失調症に類似する。強迫性障害、トゥレット障害、注意欠陥多動性障害 (ADHD) においてもドーパミン機能の異常が示唆されている。
一方、パーキンソン病では黒質線条体のドーパミン神経が減少し筋固縮、振戦、無動などの運動症状が起こる。また抗精神病薬などドーパミン遮断薬の副作用としてパーキンソン症候群が起こることがある。
中脳皮質系ドーパミン神経は、とくに前頭葉に分布するものが報酬系などに関与し、意欲、動機、学習などに重要な役割を担っていると言われている。新しい知識が長期記憶として貯蔵される際、ドーパミンなどの脳内化学物質が必要になる。陰性症状の強い統合失調症患者や、一部のうつ病では前頭葉を中心としてドーパミンD1の機能が低下しているという仮説がある。
下垂体漏斗系においてドーパミンはプロラクチンなどの分泌抑制因子として働く。そのためドーパミン作動薬は高プロラクチン血症の治療薬として使用され、逆にドーパミン遮断薬(抗精神病薬など)は副作用として高プロラクチン血症を誘発する。
………
ただ、そこで、薬剤投与によって、安易に個人のなかでだけ解決するものではない。AIにしろそうだ。社会的な学習、習わし、慣行、障壁…だから、現代の精神医療の堕落は薬物、その一点張りでしか治療しない点だ。ほんらい、脳のもともとの欠損部分を抱えたもの以外は、薬以外の外部ツール(主に人と人とのつながり)でなおしていくものなのである。(特に精神科領域)
つまり、閉じ込める、なんて以ての外である。
そこで一番笑ってしまうのが「ナチュラリズム」である。
なぜって、人間が自然であったためしなどないからだ。このあたりに、「原罪」という観点をみる。「知恵の果実」…まさかまりわなの効果が自然な物質だから安全とかほざいてる場合。タバコとかアヘンはどうなるんですか。アルコールはどうなるんですか…
まあ、とはいえ、もちろん薬の治療効果もデカい!
デカダンなまでに…
本来そこで活躍するのが、医師(古代ではシャーマン)である。今ではそれが投薬の適切さ、しかも、厚生労働省の許可の範囲内の適切さ、そんなもんで、病気がなおるかぼけぇ!
で、そこでだ。食べ物(エネルギー源)が、薬物と同じという認識を欠きすぎているのが現状である。うまいもん食ったら、甘いもん食ったら、ドーパミン云々で報酬系が満たされてしまう。食わないと死ぬ、以上に、中毒性が問題である。
甘いもの…つまり脳の唯一のエネルギー源ブドウ糖である。結局、薬物か食物か、「人は自ら進んで餓死するくらいの意志を持っている」この前提においては、趣味の問題である。
裁くのは間違っている。
例をあげよう。肉をくうとなぜ幸せになるか。以前にも書いたがしつこく…。
アナンダマイドの前駆体であるアラキドン酸が含まれている。(アナンダマイド…内因性カンナビノイド)
そもそも、一日三食…だれが決めたのだ? そんな贅沢、青山正明創始も書いておられるが、人類史を見渡したとき、つい最近になってからなのである。
断食が健康修行になるわけだ。食料のとりすぎ=毒物摂取、なんだから。
普通に考えてみよ。塩分のとりすぎつまり、塩酸塩の出来上がりである。食料、これは酸素同様、摂取しないと死ぬ、という禁断症状までついているのだ。さらに食いすぎても死ぬあたり、オーヴァードーズである。
以上は、もちろん、極論である。であるが、少なからずショックお受けた方もいるのではないか、そう思う。というのも、
自らの価値観を説得力を持って覆されたとき、だれだって混乱に陥る。それがつまり、OS改変の際のバグである!(情報工学に一番近い!)
そこを逃げ出すか、内包してアイデンティティを広げていくか、それがいわゆる器である。
そしてそれがなぜショックなのか。事実だからだ。今までの価値観では対応できない事実だからだ。
更にさす! 脳内麻薬が何故存在しており、ちゃっかり受容体まで在るのか、である。答え…キマった状態と言うのは本来人間に備わっていて、これは正直、統合失調症とADHDを見比べると、一瞬でわかる。その個人の特性の違い。ただ、個人差が在る…どういうことか。障害のレベルにまで差が生じるということ。
ある受容体を刺激すれば、その人にとってある一定の反応が起こるかどうか。これを私はこころの定義(脳とは違うもの)として、しっかりしてきたつもりだが、今の心理学ではどうも、ほぼ同じことが言われてるそうだ。…その意味で行動主義は安易だった。いわゆる人間機械論である。
例えばある曲をきかせて人それぞれ印象が違う。時と場所、またその時の気分体調によってもかわる。たちの悪いことに、これが国語辞典で意味づけされた言語ですら、いや、意味付け定義づけられている(洗脳されている)からこそ、余計にたちが悪いことに言語感覚も人それぞれだ。(W・バロウズはこれを言語ウィルスといった。仏教では「言語道断」という。キリスト教では「きく耳のあるものはきくが良い」である。ドーキンスに言わせると「ミーム突然変異」といったところだろうか)
めんどくさくなってきたのでこのあたりでとどめておこう。また次回!
混沌コントロール・山﨑雅之