ADHD!生まれもっての患者自らが語る驚異の学説(第三部)
別に、誰に対して挑みかけるわけではないのであるが、これを果たして、諸君は笑えるだろうか。いやちゃうねんで! ときには、向かい合ってほしいだけやで!?
今回、覚せい剤取締法違反で捕まって、閉じ込められ、ひたすら5ヶ月近く監視されながらの暮らしを経て、シャバに出てきた時、わたくしが学んだことは、誰の中にも、統合失調症の気があるんじゃないか、ということである。
おそらく、間違いない、と睨んで自信満々の「ADHD、その患者本人が語る驚異の学説」によると!
統合失調症の症状と対極のメカニズムにあるのが、ADHDである。その証拠に、彼らは、傷つきやすいかもしれないが、同時に、かなり無頓着である。と言い切って間違いない。人のことを全く気にかけていないかのように映ることが多々あると思う。そして実際、彼らは、自分のことで精一杯どころか、自分の身の回りの整理整頓はおろか、状況把握すらできてはいない。気にならない、といえば、気にしろよ、と思われるかもしれないが、気にしだすと、ほかのことが何もできなくなるのである。
これはあくまで、一例であるが、その逆に、統合失調症の症状は、非常に大まかに言って、ほかからの視線や考えや伝聞を重視する、どころか、それだけが真実である、というところまで、妄想が高まり、それに囚われ、最悪、行動化する。伝達物質の受容体に特徴が現れていて、どうも、統合失調症の場合、古くから、そのメカニズムがわかっており、打つ手も開発されてきていた(心理学的アプローチではやや遅れを取るのでどうしても投薬が主。D2受容体を遮断して機能の過敏さを防ぐ、のがその主なやり方)。
のであるが、ADHDの場合、どちらかというと、そのドーパミン・システムの、鈍さ。「アンバランス」、とまでは、学術的にわかっているようだが、わたくしは、普段においては明らかに、機能の低さだ、と断言する。
但し、おそらくそれは、ドーパミン1(D1)受容体への親和性の低さ、だと思う、が、一体、こんなところでわたくしは、何をこんな偉そうに言っているのか、謎であるので、大体のいいたいことは察しがついたと思われるので、やっぱり、ちょっと、もうちょっと、休んでおきたい。
だから(めんどくさいから)、結論を急ぐため、訊ねるに、皆さんは一切ないだろうか? SNSをやっていて、何気ないどこかの言葉に自己の投影をしてしまい、「自分のことだ」、と思い込み、それが違っていたことに気がついたりしたことが! ほら! やっぱり! それは、はや、統合失調症の兆候といっていい(ない、と、いわないでほしい! いまは! という、おれが一番、ヤラレ気味である、だからこそ、見える!)。
そして、見つけたからには、教訓を拾わないといけない。つまり、誰にでも、統合失調症のケアができる可能性が、少なくとも、気持ちに寄り添える可能性くらいはある。
ただ、安易にそれが通じる場合、通じない場合の見極めが厄介だ。
実際、かなり、これをいうべきか迷った。しかし、かまうもんか! おれだって昔は赤坂で鳴らしたんだ、かまうもんか!
成長、というとその定義が難しい。何をもって成長、というか、それこそ人それぞれかもしれん。ここではアイデンティティの移行、あるいは人間性の拡大、一つの生き方に執着せず自由に生きる、すべてを認め、許し、肯定できる、くらいの意味合いで、成長、とあえていってここでは話をすすめたいが、わたくしは現在、悩んでおります、深刻には受け取らないでほしいのですが、わたくしなりに悩んでおります。
何に悩んでいるかというと、練習を重ねるたびに、自分のギタープレイヤーとしての未熟、下手くそさが耳について仕方がない。作曲に関してもクラシックの楽曲などは、後世に伝わるほどに洗練されており、実に優れている。わたくしの楽曲など子供だましに思える。文章などは作文レベルの文章だと自分では思う。
そこで、どうしても、どれを極めて自分なりの生きた証を立てるか、それを考えたとき(それも執着ですが、わたくし、非常に色を好んでおりますので!)、どれも捨てがたい! しかし、時間がない! その「3つの道」を極めるには、あまりにも一生は短い。そう、焦ってしまう。拘置所の中では、とんでもなく長く感じた一日が外では、一瞬のうちに過ぎ去ってしまう。
どうしよう、どこにアイデンティティを置くべきか、そんな、青春時代の悩みみたいなものに、翻弄されております。
そこで、アイデンティティの変化、にも、一つのアイデンティティを放棄して成長する場合と、一つのアイデンティティを内包して成長する場合がある、と、それはたしかにいえると思います。しかし、心理学でよくいわれてるみたいなんですが、アイデンティティを拡大していくときに、人は少なかれ、錯乱状態に陥る。成長が病理と同じような過程をたどる、と最初にユングがいったようですが、体験上、わたくしとしてもそれは間違いない。
そして個人的には薬物の問題、明らかに中途半端にやりすぎていた状態から、今、移行しつつある。
そこでやはり逮捕、勾留されてから過敏になってしまい(当たり前である。5ヶ月近くも、常に監視され自由をほとんど制限される状態に晒されて、そして、いきなりこの、妄想を生みやすい時代の社会に放り出されるのだ)、錯乱、統合失調症様の内面葛藤を見せている。別に恥ずかしいことではないはずだ。
今日も悩みは続く。青春である。
*連れが医療関係者向けの記事を書く仕事をしはじめた。しかし、何を書いていいかわからない、というので、最後の砦であるわたくしに相談が来た。「おれが知るかそんなこと」といったが、通院歴、そしてその量、医者との確執(格、質、においてはわたくしに軍配がある)、診療拒否率などにおいて、わたくしの右にでるものも、そうはいない。
だからありったけ、懇切丁寧に文句をおれの言うとおりにかけばいい、いってやったら、そのままを書いた。心の奥底では、不採用を狙っていた。そしてその後、ざまあみろ、裏切られて騙される、それも医療のうちだ、診察のうちだ、そういって笑ってやりたかった。
そしたら、モノの見事に、「完璧な記事です!」と採用になりやがって、悔しい限りである。ざんねんだ。
嬉しい。
混沌コントロール・山﨑雅之介